働く必要がない世界は来るのか?

お金2.0を読んで、モモが生きた世界の到来を予見する内容にドギマギしたのが記憶に新しいが、この本や、その他のお金や働き方について書かれた本では、人間が働く必要がない世界が来るという憶測が飛び交っている。その実現性はともかくとして、もしそういう世界が到来した時に、自分は働くということに対してどう言った感覚を得るのか、想像することは有意義だと考える。

自分は、なぜ働き始めたのか。

お金

一番の理由としてお金という側面があるだろう。実際に働いて豊かな生活を得ているし、やはりお金はある程度あるといいものだ。お金を得たかった、あるいは豊かさを得たかったと言い換えることができるかもしれない。

風潮

意外に大きいと思っているのは、社会がそういう流れを持っているから、という点だ。つまり、結果から見れば、高校、大学、理系だった私にとって大学院まで進むことは多数派の道を進んだに過ぎない、ということだ。もちろんそこには自分なりの考えも持っていたのだが、外部から見れば、集団と同じ動きをしたと見える。集団は形を変えて自分を取り込んでいくもので、学校が変われば違う集団に、職場が変われば異なった価値観に埋め込まれることになる。こう言った側面がありつつも、その中に入り込んでいくことで、恒常性を保ってきた人生だったと言えよう。

やりがい

最後に、面白みを感じて働いてきた、という側面がある。曲がりなりにも、やりがいというものを持ってきたつもりだし、それがある仕事を選んだつもりだった。お金だけではない、周りの考えに合わせたわけでもない、自分なりの価値観を元に、やりがいを見定めてきた。

働くことがなくなったら全て失うのか?

以上が自分の働く意味だったわけだが、その働くということ自体がなくなった場合、その価値観はどう変化するのか、考えたい。

お金がタダでもらえる世界

完全な論理矛盾を孕んだこの言葉が、世界に実装された時、私は働く意味の1/3を失う。ベーシックインカムの導入は本気で検討されているし、無料のサービスも増え、お金のあり方が刻一刻と変化している。これは働かなければならない理由を大きく変えるだろう。自分自身も変わる。その時までにある程度の資産を作れていれば、その収入と合わせて、十分な生活が送れるはずだ。失うものがあれば得るものがあり、そんな社会が到来することに、貢献したいと願う仕事作りもまた、できるようになるかもしれない。

風潮に流されなくなるのか?

これは、なくならないと思う。一人ひとり働き方を選べるとして、そういった風潮に乗っかることで得られるメリットが多いわけだし、風潮が変わればその流れに沿うことになるだろう。所変わっても大小はあれど、何かの流れに生きていくということは避けて通れないだろう。環境を変化させて生きていく時に、恒常性を保つためには、流れに身をまかせる心意気も、また必要。

やりがいを持って生きることが出来るのか?

具体的な内容から考えてみたい。例えば、先生になればやりがいを持って生きていけると思う。学習を支えることとか、子どもと関わることで、自分も豊かになれると思う。こういった活動を行えば、やりがいを持って生きているける。自分にとっては、やりがいを持って生きることに対して、仕事は十分条件でもなければ必要条件でもない。活動と言い換えれば、それは必要条件になるだろう。

働くことが人生を豊かに生きることの必要条件になるのか?

以上の検討を踏まえると、働かなくても豊かに生きる方法はある。だから、働く必要がない世界は来ると思う。働かなくてもお金を得ることができて、みんなが働かないことが普通で、やりがいを、生きがいを持って生きていけるようになれば。なので、AIに仕事を奪われたらどうしようなんて考えなくても、どうぞ仕事を奪ってください、でいいと思うし、自分も働くことを人生の必要条件にしないように、注意したい。